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「日本」とは何か

日本とはいったいなんであろうか。そして日本人とはいったい。今日で3回目となる、一応連続して書いてきたものは、「日本国」という存在を抜きにしては成り立たないはずの議論ばかりである。つまり、「愛国心」の場合、愛国心の国とは何を指すのか?それは日本国であろう。「国旗・国家法」とはどこの国の国旗・国歌であるか?それも日本国だろう。はて、日本とはなんだろう。何を言ってるんだこのバカは!と思われる方もいるかもしれないが、私はいたって真面目である。愛国心を叫び、国旗・国歌を高らかに歌う人たちに問いたい。「日本」とは何か、と。

 さて、私が違和感を感じていた「日本」について、最近とても興味深い書籍を読んだので、ここに少し長めに引用する。著書名はそのものずばり「『日本』とは何か」である。(「ご臨終メディアでもおなじみの森巣博が引用されている部分)興味があればぜひ読んでほしい、地理が苦手な私としては、苦手な部分もあったが、とてもおもしろい本だと思います。

「森巣氏は「日本国籍所有者という意味以外では、日本人なんてものは、ない」と主張する(二一二頁)。前にものべた通り、私もまったくその通りだと思う。ただ、前近代については「国籍」という概念を用いうるかどうかに疑問があったので、余り明快でないとはいえ、あえて「日本国の国制の下におかれた人」といってみたが、いいたいことは森巣氏と基本的に同じである。
「そしてもし、日本国籍所有者が日本人であるとするなら『日本人論』『日本文化論』『日本文明論』は成立し得ない」と、つづけて森巣氏は断ずる。ここで同氏のいう「日本人論」は、別の箇所できびしい批判を加えた「日本人としての真性の自己同一性」を模索した江藤淳氏の「日本人論」(一五二頁以下)をはじめ、「日本人のアイデンティティー」を求めてやまない「日本文化論」さしているが、そうした論者に対し、森巣氏は烈しく詰問する。あなたの議論の対象としている「日本人」の中に「アイヌやウイルタやニブヒ」などの「少数民(族)」が含まれているか。「沖縄や小笠原の人々を包括して」いるのか。さらに「『元在日』であった二十万人を超す『帰化人』たる『元』朝鮮・韓国人たちはどうなるのだ」(一五三頁、二一三頁)。
(「『日本』とは何か」・p332、333・網野善彦・講談社)

 ふむ、これはもっともな意見である。そもそも琉球は、かつて沖縄島を中心に南西諸島の大半を占めた地域で、薩摩藩の侵攻を受けるまでは、日本から独立した王国(琉球王国)であったのであるから、それを安易に統括して、もしくは省いて「日本文化論」を語るには無理があるといえるだろう。

 そして、問題は琉球王国のうちなーんちゅや、アイヌといった代表的な少数民(族)以外=日本という単純な図式でもないということである。
私が教育基本法改正における「愛国心」のところで、

「これは後の「『日本』とは何か」にも通じるが、伝統や文化というものを尊重しようとすればするほど、逆に「日本」という「国」が見えなくなるというパラドクスが存在すると私は思うのである。」

と書いたのは、そういう意味である。つまりどういうことかというと…、さて、あの回にとても貴重なコメントが入っていたのを覚えているだろうか。それはこんなコメント、

「なんじょしてこげな国愛すっべ。わがね。わがね国のわがね愛国者にはついていけね。」

訳:「どうしてこんな国を愛するのだろう。ダメだ。ダメな国のダメな愛国者にはついていけない。」

私はこのコメントを普通に訳せなかった、ネットでわざわざ探してやっと訳が出来たのである。ちなみにこの方はイーハトーブ(岩手)の方言で書いてくれたのだが、まだわかりやすいほうである。うちの父方の祖父は山形弁なので、電話で話されると聞き取れないことが多々あったものです。いまでも地方のお年寄りの方の話される言葉は聞き取れない言葉が多くあると思う。これは「日本の方言」という表現よりも、外国語として捉えることが可能なのではないだろうか。江戸時代などは、いわばヨーロッパのようにつながった国(藩)の集合体であったのであるから、当然といえば当然である。

 このように考えると、先の教育基本法の、

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」

という一文がいかに矛盾したものか理解できる。伝統と文化を尊重するなら、琉球やアイヌという地方固有の特質が出てくるのであって、日本国などというものが出てくるはずがない。これは「日本国」という幻想の中に伝統と文化があると信じきっている滑稽な政治家の矛盾した「愛国心」強制なのではないだろうか。

 また、昨今の市町村合併を見てみると、政府、政治家がいかに「伝統・文化」に興味がないのかがわかる。私の故郷も合併で消えた。合理的な考えのみで市町村を合併し、過疎などを助長している市町村合併を行っている裏で、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」なんて冗談にもならない。郷土を愛せだって?あなたたちが消したんじゃないか。また合併反対の住民投票さえ効力を持たないなんて、いったいあなたたちの言う郷土とはどこのことなのか。

 話はそれたが、最後にもう一度引用して、今回の考察を締めくくりたい。

「本書でも詳しくのべた通り、アジア大陸の北と南を結ぶ懸け橋であるこの列島で営まれた人類社会の深く長い歴史を背景に、日本列島はたやすく同一視できない個性的な社会集団、地域社会が形成されてきた。それを頭から追求可能なアイデンティティーを持つ「日本人」としてとらえ、その文化、歴史を追及し、その特質を論じようとする試みは、「日本国」-国家に引きずられた架空の議論であり、本質的には成り立ち得ない。実際、こうした「日本人論」「日本文化論」は否応なしに、多様な社会集団や地域社会を無視し、その多くを切り落としたゆがんだものになるか、前にくわしくのべたように、「孤立した島国」「瑞穂国」「単一民族」などの根拠のない「虚像」をつくり出すか、あるいはついに事実を追求することを放棄し「神話」「物語」によってアイデンティティーを捏造するか、いずれにせよ事実に即した「日本人論」としては成り立たない議論とならざるをえないのである。
 またこれも前にしばしば強調した通り、「日本」ヤマトを中心に成立した国家の国号、「天皇」を王の称号と定めた王朝名であり、七世紀末にはじめて日本列島に姿を現した存在である以上、「日本人」「日本文化」を論ずることは、どうしてもヤマトに収斂し、ヤマトを文化・歴史の最先端地域とする見方に導かれていくことになる。
 さらに「日本」が国名であることを意識せず、頭から地名として扱い、弥生人、縄文人はもとより旧石器時代にまで「日本」を遡らせて「日本人」「日本文化」を論ずることも、ふつうに行われているが、これは「日本」が始めもあれば、終わりもあり、またその範囲も固定していない歴史的存在であることを意識の外に置くことによって、現代日本人の自己認識を著しくゆがめ、曖昧模糊たるものにしているといわなくてはならない。」(「『日本』とは何か」・p333、334・網野善彦・講談社)

みなさんの頭の中もそろそろこんがらがってきたのではなかろうか。「う~む、『日本』とは何か」と、そうなってもらえていれば嬉しいです。
by furu-ku-buratto | 2006-05-18 23:08 | 社会


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