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命の洗濯か〜。

 大学に行くため、二人暮らしになって始めたことといえば、自炊と、あとは洗濯ですね〜。今日は曇りのち雪という予報だったのに、朝起きたらかなり晴れてたんで、良し!洗濯できる!と思ったら、寝坊してました(苦笑)なので結局大学から帰ってきてから洗濯機をまわしてたんですが、今からじゃあんまり乾かないでしょうね〜。残念。
 洗濯機の普及以前にはたらい、洗濯板と石鹸や灰汁などを使っていたんですよね〜。今みたいにドサッ(洗濯物を入れて)のピッ(ボタン押して)のササっ(洗剤、うちは洗濯石けん)とはいかないですからね〜。脱水も、なんか麺を延ばす機械みたいなやつで、くるくる回して脱水してたんですよね(説明下手(苦笑))
 今洗濯といえば、化学洗剤などで川を汚すイメージがありますが、昔は川や小川の水を利用して、環境に悪影響のない洗剤での洗濯や野菜の土落としなど、しっかり自然のサイクルの中に入っていた時代も…今は漂白剤とか、病的なぐらい清潔?にしたがりますよね。なんかもっと大事なことあるだろっ!とか思いますが。
 川へ洗濯に…といえば桃太郎ですね〜。他に思いつく洗濯ネタといえば、「お風呂は心の洗濯よ♪」(エヴァンゲリオンより)ぐらいかな(苦笑)
 みなさんも天気予報を確認しながら、洗濯物は溜めすぎないように、こまめに洗いやしょう!!
# by furu-ku-buratto | 2006-01-20 15:45 | 大学生の日常

休憩♪+α

 いや〜なんと申しますか、レポート多っ!!というわけで、相変わらずパソコンの前で唸っていますが、ちとブログで休憩です。レポートに集中するため、あまり長くて、頭の使うブログは書かないとか言っておきながら、割と長いやつ2個ぐらい書いてたので(笑)、今日はゆる〜く書いてます。
 しかし、ここ何日か集中してレポートに取り組んだおかげで、来週に集中している締め切りのレポートは、残すところ例の日本の文学の「三たびの海峡」という本に対するレポートのみです!ただテストとレポート一つはまだ残ってますが…
 ちなみにこの「三たびの海峡」、かなり分厚いほうなのですが、おもしろいという表現は不適切かもしれませんが、すごく集中して読めました。というより、読まされたというほうが正しいかもしれませんね。おかげで1日で読み切ってしまいました。とてもおおまかにいえば、朝鮮から日本に強制連行されてきた少年の一生を描いた作品ですが、実際に存在している人の手記のように生々しいし、時代考証もしっかりとされているし、作品の構成もとても引き込まれる感じを受けます。著書の裏面に書いてある一文を引用するなら、「日韓史の深部を誠実に重ねて描く」作品です。またの機会にしっかり紹介したと思うぐらいの本で、特に日本の若い人は、この本を読んで欲しい。むしろ読むべき作品であると思う。この作品にはかなり力を入れてレポート作成したいと思っているので、また気合いを入れねば〜〜!!
 ほんとにレポートのことばっかりだな最近(苦笑)2月11日よっ!早く来いっ!!
# by furu-ku-buratto | 2006-01-19 21:11 | 読み物

良い 幸せ すごい 結局君は何を言いたい?

 今日は以前提出した、「伊豆の踊り子」のレポートが返って来ました。で、そのコメントがとてもずしんときたので、今日はそこから発展させます。少し前後のコメントは切り取っていますが、言いたいことはわかると思うので、ご了承くだされ!
 
「ただ、最後に『二人にとって良い結末であると期待したい』とありますが、これはどういう意味ですか?『良い結末』が何を意味するのかも問題ですが、このような美辞麗句によりかかってまとまりをつけようとするのは、本当に書くべきことから逃げる姿勢ではないか?」
 
というコメントがありまして、弱いところを見事に言い当てられたもので、落ち込むというか、反省というか、かなり感じました。
 ようは私は「自分の言葉(=思考)」を分節化することを、「さぼる」、「逃げる」。つまりものごとを単純にしかとらえず、粘らずに書くことがあるということですね。その傾向はこのブログのところどころに見られます(汗)。
 特に「美辞麗句によりかかって」というところは本当に反省すべき点ですね。これでは読書感想文で、ただ「おもしろかった」と書き、何がどうおもしろいのか考えることをやめてしまう少年と同レベルだもの。
 私は理想と現実とは相反するものではなく、しっかりとした理想を持つがゆえに、現実をしっかり見れるのだ。という考えを持っていますが、私の場合は、抽象的な方に、そして、安易な差し障りの無い言葉に逃げる傾向があるんですよね。ブログを始めた理由には、そういう傾向を直すためということもあったんですが、まだまだ修行が足りませんね(苦笑)そういった意味で、ここでのみなさんのコメントはとてもありがたいです。
 日本語リテラシー(この前、担当の先生にアメリカのメディアがどうイラク戦争を報道したのか?というドキュメンタリーの録画DVDをもらいましたよ〜。)という授業のプリントの中で、この分節化についての文章があったので引用します。少し長いですが(笑)
 
・言葉と世界
 人はなぜ言葉を発するのか。それは、世界を分節化するためだ。分節化とは、一義的には、線を引いて区分するというようなこと。人間という生き物は、そうしないと生きていけないものらしい。人間は世界を観察し、調査し、分類する。分節化したことがらを並べ立てそこに法則や関係や系統を見て取ったりもする。(こうした行為は「構造化」「図式化」という)。
 分節化という言葉を強調したのは、大雑把な、単純な言葉=思考を排するような方向で考えて欲しいからだ。具体的には、複雑で多様で、多義的で、多層的で、両義的で、まぁ要するに一筋縄ではいかない現実世界について、そこから見えてくる様々な「問題(テーマ)について、解きほぐしながら考えていくこと。いろいろな言葉に言い換える、図式化してみる、あれこれと調べてみる・・・といった作業を通して、考えつめていくこと。そして、自分の腑に落ちるように、他人に伝わるように言葉にしていくこと。むろん、他人に伝えることはもちろんのこと、自分で腑に落ちるように言葉を発することも、そう簡単ではないのだが。
 言葉の能力とはすなわち分節化能力であり、これの劣る(低い、幼い、乏しい)人は世界を分かりやすく単純にしかとらえられないということになるが、人は往々にして、分節化を面倒くさがり、単純で分かりやすい言葉を選んでしまう。また、分かりやすい言葉の方に耳を傾ける傾向もある。
 分節化=言語化することの一筋縄ではいかない難しさ、やっかいさを説明するために両義性という言葉も、何度か持ち出した。分節化=言語化という営みもまた、いろいろな意味で両義的である。安易に言い切ってしまってはいけないが、曖昧なままでもいけない。伝えるためにはわかりやすくなくてはいけないが、粗雑で乱暴ではいけない。
 言葉は、「書いたら書きっきり」なので、できれば書きたくない、書き終わりたくない。自分のなかにある豊かなイメージが、素晴らしいアイディアが、鮮やかな論理が、情けない言葉になってしまう寸前の状態をいつまでも保ちたい。だが、書かれない言葉=思考は、存在しないのと一緒なので、とりあえず書くことから始めるしかない。
 だから粘らなくてはいけない。潔く諦めなくてはいけない。

だそうです。この文章自体かなり分節化されてますよね。最近の事例でいえば、小泉のワンフレーズ的な発言は、お世辞でも分節化されているとは言いがたい。というか内容がそもそもあるのか?と、この話しは話しだすと長くなるのでやめときます(苦笑)
 レポートというものは提出期限があるため、推敲するにも限度がありますが、やはりその期間の中で、自分の出来る範囲で粘っていかなきゃいけませんやね!!と、それでは、今からスポーツ演習のレポートに取りかかりますか…ただ1番やる気でない…というか文字数自由なのが恐い(笑)
 
# by furu-ku-buratto | 2006-01-18 17:53 | 大学生の日常

知ることがないと、忘れることもできない−阪神大震災に振りむく−

 今日1月17日は阪神・淡路大震災が起こってから11年目にあたる日です。私もニュースでこの話題を聞くまで、すっかり忘れていました。11年前というと、私は8歳で、小学校2年生でしたね。朝、かなり揺れて飛び起きて、結局地元は被害らしい被害もなかったため、その日も登校したように思います。
 祖母の家が兵庫だったため、壁に亀裂が走ったりしましたが、それほど被害もなかったのですが、親類の家が全壊し、亡くなってしまいました。その電話を聴いた後の母の姿は今も鮮明に憶えています。震災後まだ電車が止まっているときに、父は線路を歩いて兵庫に行ったんですよね。
 震災後、復興・応援のために、母がいろいろと現地で活動するのを手伝ったこともありました。広場で、山形名物の玉こんにゃくを配ったり、パンジーを配ったりと、おぼろげですが、まだ思いだせます。
 私はすっかり忘れていたと言いましたが、本当に「忘れた」のかな。と思うところがあります。私はそれほど震災を知っているのかということです。忘れることは、知っていることが前提で成立するものですね。忘れるためには、知らなければいけません。だから、スマトラの津波や、パキスタンの地震(今日実家から電話がかかってきた。どうにもパキスタンの被災者を支援するネットワークを立ち上げたようです。)などについても、私たちが忘れていたと言ったところで、それは本当に「忘れた」が成立しているのでしょうか。そこには「知った気になっている自分」はいないでしょうか。
 天災において表層の「忘れた」が成立することも恐いことですが、私は人災において、この表層の「忘れた」と言ってしまうことは、かなり恐い、残酷なことではないかと思います。
 例えば日本は国としては、イラク戦争を支持し、自衛隊を派遣したわけですが、もはやテレビのニュースに流れることはまれであろう。今のテレビはといえば、ポスト小泉、証人喚問、ライブドア家宅捜索といったところである。話しはイラク戦争に戻しますが、今、日本人でイラク戦争について、深く考えたことのある人はいったいどのくらいいるのでしょうか。あの戦争を始めた理由が荒唐無稽な理由であることは多くの人が知るところであるが、もはやアメリカでもブッシュの支持率は回復しつつあり、多くの人の頭から「忘れ」られているのだろう。
 人災と天災との違いは、ここに原因を、恨むべき対象を生んでしまう点にある。例として小泉の靖国参拝で考えると、中国・韓国(日本が侵略した国はもっとある)の人たちは、彼らしか知り得ない苦しみを受けてきたはずである。それを支配する側であった日本の首相が「心の問題」だといって片付ける。「心」を持ち出すなら、彼らの「心」はどうなる?
 靖国論議は少し置いておいて、記憶ということで考えると、私たちはいったいどれくらい、その時代の日本を知っているのだろうか。そうか、忘れたのではない、私たちはまだ知ってもいないのだ。このように人が起こした問題について無関心でいることはとても危ないことだ。しかし、本当に人は真の意味で「知った」時、きっと心からは消えないのではないだろうか…
 最後に、テレビで1月17日のことを、「いってんいちいち」と呼ぶのが気になった。おそらく、アメリカの9.11から来ているのだろうが、なんかこういう呼び方はして欲しくはない、なぜかはわからないけど。

 −阪神大震災で亡くなってしまった人にご冥福を、
        そして被害にあわれた人にはこれからの幸せを願って、今日のブログを終える−
# by furu-ku-buratto | 2006-01-17 22:39 | 社会

私は今、何キロ走れるのか…いや、だから、運動じゃないってば!!

 いや〜きのうのブログのコメントを見る限りでは、みなさんレポートに苦戦しているようですね(笑)もうレポートのことは思い出したくないかもしれませんが、今日もレポートの話題です(笑)
 日本語リテラシーという授業の期末課題がありまして、自由にテーマを設定して、4000字を書くというもので、今は何をテーマにしようか悩んでます。候補としては、前回私が書いた「翻訳する映像」というレポートに、ドキュメンタリー、メディアリテラシーを絡めて書くという案と、改憲問題について書くという案、そしてイラク戦争をとらえ直して書くという案、その他、という感じです。興味のないテーマを勝手に設定されるよりはいいのですが、自分でテーマ設定する場合もなかなかやっかいですね。しかも、4000字…これは短距離ではない!繰り返す!これは短距離ではない!?と、短距離ではないというのは、「日本語で遊ぼ」の監修で知られる、斎藤孝さんの「原稿用紙10枚を書く力」(大和書房/2004年10月10日発行)という本の中で、

「話すことが歩くことだとすれば、書くことは走ることに似ている。いきなりでも長い距離を歩くことができるように、特別な訓練をしなくても、長い時間話すことはできる。しかし、長い距離を走るとなると、絶対にトレーニングが必要になる。慣れてもいない人がいきなり十キロ走るのは、まず無理だ。それなりのトレーニングをして、徐々に距離を延ばしていかないと、長い距離は走れない。」(p13)

という文章からきているのですが、4000字となると、ちょうど原稿用紙10枚!?そして、同じく作中、「そして原稿用紙十枚を怖がらない人を『文章が書ける人』と定義している」(p14)ようです。なるほど、今回の課題で怖がっていては私は文章を書けない人になるらしい。そして、この1年私がしっかりとトレーニングを積んで来たかの目安の課題にもなるだろう…やってやろうじゃないか!!と妙にテンションが出て来たところで、政治学のレポートでションボリしてきます(苦笑)
 あぁっと最後に、最初は斎藤さんの本を引用するつもりなかったのに、なぜかこのタイミングで出てくるとは、これはもう一度読み直せという暗示だろうか(笑)みなさんも興味があれば読んでみてつかされ。
# by furu-ku-buratto | 2006-01-16 21:14 | 大学生の日常