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 いままでありがとう!そしてさようならエキサイトブログ(涙)
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                 シュトゥルム・ウント・ドラング
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# by furu-ku-buratto | 2006-05-18 23:16

最新(深)のイラクの報告会レポート-4-ラストレポート

 さてもさても、今日はアジアプレス最新現地(北朝鮮・イラク)報告会レポート第3回目です。2時間ばかりの報告会をどれだけ時間かけてレポートしてんだ!という話ですね…(汗)。今日は坂元卓さんによる武装勢力と呼ばれる人たちについての報告です。

 この武装勢力の台頭はアメリカは予想していなくて、その結果として

「最初の半年間の政策を失敗した」

というコメントが出たりするわけです。最初の半年間の間に、他国からの反米の義勇兵がどんどんイラクに入ってきたんですね。

 こういった武装勢力の動きを政府も黙っているわけではなく、今イラクでは夕方になると意見広告というかCM(政府・NGOが作成)がかなり流れるようで、例えば、選挙の映像が流れて、その列に男が突っ込んでいって、自爆してしまう。その後でテロップで、

「信仰のためとはいえ、こんなことが許されるのだろうか?」

というような文字が映し出され、自爆攻撃をなんとか抑制しようという内容のCMや、ある人が人を銃で撃つと、実はそれは自分の兄だったというようなCM。またよそものの犬がやってきて、肉をあさっている。そして、

「彼ら(他国から来た武装勢力)の居場所はない」

というようなテロップで、イラクのことはよそものの好きにさせてはいけない。つまりイラク人のためのイラクを作っていこうという、シーア派とスンニ派の対立を緩和させるためのCMなども流れているようである。しかし、こういったCMには米軍による犠牲はなぜか反映されていないとのこと。

 一方の武装勢力もメディア戦略を行っていて、以前は米軍へ迫撃砲を打ち込むような戦果を誇るような内容だったが、最近はこうやったら爆弾が作れるというような「How to」ものに変化してきているようである。またこのような爆弾での被害も多く、最近では遠隔操作が可能になり、そのスイッチが携帯などのに組み込まれるなど巧妙化しているとのこと。

 また「バクダッドの獅子」と呼ばれる武装勢力へのインタビュー映像や斉藤昭彦の事件の「アンサル・スンナ」(間違っているかも)軍で、現在刑務所にいる人の話などもあった。その中である人は、金になる仕事があると言われて、この袋をどこそこに置いてくるだけだ。と言われ、やった後で、それが爆弾だったと分かったというような話もあった。その人はそれ以降も仕事を続け、かなり位は上になっていたようである。

 テロとの戦いとの名目がいまだアメリカでは掲げられているが、そのテロとの戦いとやらが、イラクに本当のテロをもたらしているとは、なんともやりきれない。

 その米軍であるが、最近は出動が減り、代わりに訓練されたイラク軍が動くようになっているという。その訓練は米軍や韓国などが担当している。軍での仕事は月370ドルで、確か学校の先生が200ドル?ぐらいと言っていたので、かなり高い収入なようです。武装勢力にしろ、軍にしろ、どちらも仕事がないから仕方なく入っているケースも多いようだ。明確な意思の対立がないにも関わらず、ただ就いた仕事が違うがゆえに、下手すれば死をも生み出すことになるとは…。

 ただ驚いたのは、自爆犯の多くがシリア等の他国の義勇兵だということである。また本人は知らないまま自爆させられるケースもあるという。ある人はトラックの荷物を頼まれて運転していたら、実はそれが爆弾で自爆させられてしまったり、ある人は薬を飲まされて自爆させられたりするという。

 また市民の意見として、米軍の即時撤退というのは無責任だという意見が多数を占めるという。これはこれまで述べてきたイラクの現状では今撤退させられるとイラクがめちゃくちゃになってしまうからである。またブッシュ政権は、終始「イラクの治安組織が整備されたら撤退する」という見解を示しているが、「イラク人が望んだら出て行く」とは一度も言っていないそうだ。


 日本でも、本当にたまに自衛隊の撤退についてテレビで取り上げたりするが、結局ほとんどが日本にとってどうこうという日本のメリット中心の考え方が多い。私はイラクの自衛隊派遣には反対だが、もう派遣してしまったことには変わりはないのだから、これからイラクにどう関わっていくのが一番双方のために良いのかということを議論する必要があるだろう。自衛隊の撤退はおおいに結構だが、それで「はい、イラク戦争終わり!」となってしまっては、まったく無責任である。まぁ自衛隊はイラクに行ってもお金を無駄に使うだけなので、さっさと戻ってきてほしいけど…。



 「自由はもたらされたが、幸せではない」



 「いつまでイラク戦争が続くのかわからない」



 「どうしたらいいのかわからない」



 これはイラクの人たちが抱いている思いだ…。その思いとは裏腹に、日本でのイラクという存在、イラク戦争という出来事はどんどん薄れていっている。アジアプレスの人がイラクについての企画を大手メディアに出しても、いったい何を受け手に送るべきか判断できない「視聴率原理主義者」たちは「視聴率が取れない」といって、それを却下する。しかし、いざ斉藤さんが拘束されたとなると、ハイエナのように映像やリポートに群がったのである(ハイエナに失礼ですね…)。それすら長くは続かなかったそうだ…。

 私がイラク戦争に興味・関心があるのは、イラク戦争が持つ矛盾や悲惨さだけではない。イラク戦争というフィルターを介して、イラク戦争を肯定した現代日本が持つ様々な問題が見えてくるように感じるからである。この前「現代社会と歴史認識」という授業で、戦争体験者の体験談の危うさという興味深い話があった。要約すると、

「戦時中苦しい時代を生きていたことは間違いないが、一生懸命生きていた彼らは周りが見えていなかったということも十分考えられる」

というような話があった。(ちなみにこの話の前提として教授の聞き取り調査での出来事があるのだが、今回は省かせてもらいます。)つまり、現実を生きていても、現実を見ているとは限らないという意味である。そして、これは何もそういった聞き取りが無意味という意味ではなく、体験談をそのまま信じることには危うい点があるということである。

 さて、自虐史観という言葉がある。しかし、今回はこの言葉に主として該当する戦争についてアレコレ言うつもりは毛頭ない。私は今後イラク戦争がどういった動きになるかまったくわからないが、時はどうしても経っていくだろう、いろんな悲しみを生みながら、そうして時が経って、誰かが言う。

「日本はアメリカの荒唐無稽な理由で開戦したイラク戦争を支持し、結果イラクではたくさんの市民が死を迎えた。日本はイラク戦争において加害国の一員だった。」

 それを聞いたある人はこう言うかもしれない。

「それは自虐史観だ。」

と。

「日本は自衛隊をイラクに派遣して、人道復興支援を行った。」

のだと。

こういった話にならないと誰が保証できるだろう。現実を生きていながら、イラク戦争をシカトし続けるマスメディアと日本人にだけは、「自虐史観」。。。このセリフだけは使ってほしくない。イラク戦争では、いったい何が、誰が「かれら」を殺したのか?そんなことを考えもしない、見もしない人たちが果たしてイラク戦争を語ることが出来るのだろうか。

 とにかく、私は見続けよう落ちてきた視力で、考え続けよう足りない頭で、イラク戦争はいろんな意味で複雑過ぎるのだから…。今日もやたらと長くなってしまいましたね。文章としてもまるでまとまっていませんし。最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。ご苦労様でした。
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# by furu-ku-buratto | 2006-05-18 23:13 | 社会

最新(深)のイラクの報告会レポート-3-

 さて、今日はアジアプレス最新現地(北朝鮮・イラク)報告会レポート第3回目です。ビデオキャスティングが出来ればみなさんに映像等を見せることが出来るんでしょうけど…う~ん。そんなこともふと考えつつ今日もレポートしていきます。

 今日はバクダッドの現地スタッフのモハマドさんへの生電話インタビューの一部始終です。ほんの少しでしたけど、現地の人の声が聞けました。その間、坂本さんや玉本さんが英語やアラビア語?かクルド語?を使い分けて話していて、それを見て、こういうときにも外国語が出来ないとまずいな…と自分の英語力のなさを悔しく思いました。

Q.バクダッドの状況は?

A.非常に生活が困難で、それは殺人や拉致・誘拐が多発しているからで、しかもそれは武装勢力がするのではなく、イラクの治安部隊・警察が武装勢力との関係を疑い一般市民を拉致していく。さらに深夜に逮捕礼状もなしに逮捕・拘束していってしまう。このような行動に一般市民は強い憤りを感じていて、この治安部隊・警察への怒りが政府への怒りにつながり、市民は政府をあまり信頼していない。

Q.一番怖いことは?

A.昼日中にいきなり拉致されること。


 あまり時間がなかったので、このぐらいしか問答することができなかったのだが、それでも市民を守るはずの治安部隊・警察の活動が市民の不信感を招いているとは、なんとも驚く話である。しかし、共謀罪や教育基本法改正などの動きを見ていると、日本も行き過ぎた公権力の行使というものの存在がひたひた迫ってきているように感じるのは私だけだろうか…。

 この後坂本さんたちへの質問があって、

Q.物価・経済状況はどうなっているのか?

A.戦争が終わって以降物価は上昇し続けています。燃料(ガソリン・灯油)は特に値上がりが激しく、ガソリンは1リットル7円だったのが→今は20円になっている。日本から見れば、それでも安いように感じるが、かなり値上がりしている。またりんごも1キロ100円だったのが、以前の2倍になっている。(ただイラクには昔から配給の制度?があり、燃料もある程度はチケットでまかない、それ以上は自費で買うようである。)

 今イラクでは仕事がない→しかし、物価は上がる一方なので物が買えない→職といえば治安部隊・警察しかないという、上記に書いたこととも関連する良くないサイクルが成立し始めているようである。

 以前の記事に関するコメントで、

「イラクは豊かなんです。こういう厳戒態勢でも食料や燃料などはあるので、よけいに市民は避難しにくい皮肉な現実があります。」

という筒井さんのコメントがあり、以前のアルビルのような場所に親戚などがいなくて、容易に避難しにくい人にとっては、バクダッドにいることが、たとえ様々な危険があったとしても、「生きるため」にはそうするしかない。究極的な選択の狭間に突き落とされてしまっているように感じる。そんな中で避難される方が急増しているということは、私達の想像を遥かに超えた状況にあるのでしょう…。
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# by furu-ku-buratto | 2006-05-18 23:12 | 社会

最新(深)のイラクの報告会レポート-2-

 さて、今日はアジアプレス最新現地(北朝鮮・イラク)報告会レポート第2回目です。それではさっそくいきましょう!その前に本編の続きを書く前に、昨日の補足です。昨日のイラクの病院の話をしましたが、その映像を撮ったのは綿井さん本人ではなく、現地で協力してくれているイラクの方に頼んで撮ったものでした。それだけバクダッド市内の治安が悪化しているということの表れです…。

 昨日に続いて今日は玉本英子さんによるクルド自治区であるアルビルを中心とした、非戦闘地域のイラクの女性、子どもの現状、イラクのヒロシマと呼ばれるハラブジャについてです。玉本さんはやはり自身で映像が撮りたいとのことで、イラク北部のクルド自治区であるアルビルを中心に活動されています。

 まず国内避難民が多く通うジャワヒリ小学校(正確な場所は聞き逃しました)の映像があり、3年生のクラスでは、約四分の一がバクダッドから避難してきた子どもで、それほど避難が急増していることを実感しました。

 ジャワヒリ小学校に通うヘミン君という少年に少し深く追っていて、彼のお父さんは11月に「米軍に協力した」という疑いで、武装勢力に殺されてしまったそうです。いきなり父親がなくなったので、ヘミン君はモスクの壁に人探しのビラを何枚も貼ったそうです。しかし、彼のお父さんは後日息を引き取った状態で路上に放置されていたのです。ここでのヘミン君、そしてお母さんの話していたことが印象的でした。

「フセイン政権では幸せだったのに、今は壊れてしまった。」

 今この言葉をアメリカ、イギリス、日本、韓国、その他イラク戦争を支持した国の人たちが聞いたら、なんと思うのでしょうか。これがアメリカのいう世界に広げなくてはならない自由と民主主義なのか…。どれほど安易にイラクに介入したのかという一端がここに垣間見えます。

 また避難してきた人の家は単にブロックを積んだだけの簡素な住宅が多く、私はパキスタンの地震が頭をよぎりました。もし今この地域に地震が起きたらとんでもないことになる…と。

 次に玉本さんが現場に10分後に到着し、まだ生々しい血の海が乾いたイラクの地に存在していた、警察官の面接の列に対する自爆攻撃の映像が流されました…。リアルなのだけれど、それでもどこかアクチュアリティを欠く私。これがイラクと日本の温度差なのか…。この自爆攻撃ははじめスンニ派?がしたということだったのですが、実際はクルド人の内務省関係の人が起こしたようで、もはや誰が自爆攻撃を起こすのかわからないという状況です。

 玉本さんはこの自爆攻撃で夫と息子を失った女の人をおいました。息子は家計を支えるため警察官の面接に向かったそうです。ただ面接場所の付近がよくわからないかったため、父親が「よし、ついて行ってあげよう」といってついていったところ自爆攻撃があったそうです。二人のお葬式では、彼女は泣き崩れ、姉は自分の胸をたたいたり、髪の毛を引っ張ったりして、周りの親戚と思われる人が必死で止めていました。

 当時は彼女の精神状態が良くなかったので、後日改めてインタビューされて、その時お墓の横で彼女は「寝られないから、夢にも出てきてくれない。」ことやイラクでは習慣になっている即興の歌を二人に捧げていました。またおそらくイスラムの風習だと思いますが、彼女は死ぬまで黒い服を着て過ごすそうです。やはりイラクでは女の人は家で子どもを育てるということが基本なので、夫を亡くすということはとても大きなものを失うことなのです。

 日本にテレビではもはやイラクは黙殺されていますが、たまに新聞で

「イラクで?日未明、テロがあり10名が亡くなりました。」

というような記事がある。しかし、この記事からどれほどの意味を感じられるだろうか、一人の命が失われる背景にいったいどれほどの悲しみの連鎖、つながりがあるのだろうか、人は決して一人で生きているわけではない。世界はとかく命とそのつながりに疎くなってはいないだろうか…。

 最後にイラクのヒロシマと呼ばれるハラブジャについての話でした。ハラブジャは1988年?標的のクルド人がイラン人の協力者と見られて、イラク軍による毒ガス攻撃を受け、約5千人もの人が亡くなったと言われています。記念館のようなものもあり、規則正しく並ぶお墓の横の壁には「この出来事を忘れないようにしよう」というようなことが書き記されていました。さらにイラクの人は日本のヒロシマ・ナガサキを知ってくれている。それなのに今の日本はどうだ、イラクのことを知ろうともしない…。

 またこのハラブジャの悲劇は今回のイラク戦争の湖底を映し出してもいるのである。ここで少し引用します。

・イラク軍事攻撃はありうる

チョムスキー:「ですからアメリカ合衆国がイラクを攻撃することは十分にありえますが、これは国際テロリズムとはまったく無関係です。先日ブッシュ大統領が記者会見で述べたこととも無関係です。いいですか、大統領は、サダム・フセインとは自国の国民に向かってまで化学兵器を向けるような極悪人だ、大量殺戮兵器を開発しているんだといっていました。どれも間違っていない。ただ、ブッシュのスピーチライターが注意し忘れたことがある。サダム・フセインはそれを、現大統領の父親の支援を受けてやった、という事実です。父親のジョージ・ブッシュはフセインを支持していました。イギリス政府もです。ジョージ・ブッシュとイギリス政府はフセインが最も残虐な行為をしている最中も、その後も、熱心に彼を応援し、大量殺戮兵器を作り出す技術を与え続けた。彼が非常に危険な存在になったときも、いまのフセインよりはるかに危険であったときも。アメリカもイギリスも、フセインの犯罪を気に留めなかったのです。

辺見:「そうですね。サダム・フセインがクルド人に対して毒ガスによる虐殺などの残虐なテロを行っていたときに、米国は強力に支持していましたしね。」
(「メディア・コントロール」ノーム・チョムスキー/集英社新書/2003.11.9第4版発行/p137~138)

・この対談は2002年3月15日、米国マサチューセッツ州ケンブリッジのマサチューセッツ工科大学にて、もちろんイラク戦争開戦前に行われたものであり、「・イラク軍事攻撃はありうる」というサブタイトルは、後のイラク戦争を切なくも、そして見事に予見した言葉であったといえよう。

 どれだけ「われわれ」はご都合主義なのだろうか。痛みを、そして悲しみを死ぬほど背負うのはいつもいつもいつも「かれら」である。いったいイラク戦争を支持している人は、開戦時に自衛隊を派遣することに賛成した人は何を見ていたのか、何を信じていたのか…。その結果が招いた今のイラクの現状を、恐ろしいことに「われわれ」はまた見ないし、信じていないのではないだろうか…。

 このブログを見て、一人でも何かが見える人が増えてくれれば、それだけで嬉しい…。
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# by furu-ku-buratto | 2006-05-18 23:11 | 社会

最新(深)のイラクの報告会レポート-1-

さて、昨日アジアプレス最新現地(北朝鮮・イラク)報告会を聴きに大阪まで行ってきました!ファシズムについての授業を泣く泣く抜けて、次の授業もサボって、大学から直で行ってきましたよ…(涙)。しかし、やはりサボって行ったかいがありましたね。それでは以下から報告会のレポートを何回かに分けて書いていくことにします。ただ私の書いたメモを元に書いているため、足りないところが多々あると思いますが、その辺はご了承くだされ。

 まずイントロデュースでは、協賛しているデイズジャパンの紹介やアジアプレスの動き等の説明が入り、最近のイラクでの取材の困難さや危険についての説明がありました。

 治安はかなり悪化しており、特に外国人と関わっているイラク人、そしてその家族が「米軍の手助けをしている」等の疑いで武装勢力に殺されたり、誘拐されるケースが増えているという話がありました。
 
 そして現地で動くためのジャーナリストの準備についても少しあり、ハンディカメラや衛星電話・衛星モデムといった、昨今の少人数による取材を可能にしている機器。また防弾チョッキや、場合によっては民間の警備会社に依頼して警護・護衛を雇うこともあるようです。ただこの警護を頼むということは自らが武装した側になってしまうというジレンマがあると話されていました。

 続いて本編ですが、まず時間の関係上30分後には関空から東京に戻らなくてはいけなかった綿井さんによるバクダッドの最新情報からでした。(綿井さんは当ブログでも紹介していたように、3月から4月にかけて再度バクダッドに現地入りされていました。)

 綿井さんの話によると、主権移譲から治安の悪化が激しくなったようで、以前綿井さん自身が新潟の上映会の折に受けた。

「イラクでは誰と誰が戦っているんですか?」

という問いを再度話され、

『テレビではシーア派とスンニ派による内戦状態と簡単に言っていますが、実際は以前にも増して図式が複雑化している』

と、話を聞いていくほどにイラク情勢の複雑さが増していくようでした。

 最新の映像に沿って話は続き、空港から市内までの道が一番危険で、何かあるとすればここで起こるのだという。以前は30分で市内についてのに、今は何箇所も検問があり、またカラシニコフ銃を持った所属不明の警備の人がいたりと、かなり異常な光景でした。さらにバクダッドが要塞化というか、コンクリ壁や鉄条網などが増えているようです。

 また治安の悪化により、子どもたちの外での遊びが減少し、学校も自爆攻撃の標的になっていて、学校にも必ず警備員がつき、親が迎えにくるようになっているとのこと。さらに宗派間の問題が子どもの間にも広がり、「スンニ派の子とは話さない」と話す子どももいました。なんか子どものころからこういうふうに宗派間を意識してしまうようになると後々かなり良くないだろうけど、つくづく宗教は難しい…。

 次に病院、市内?のヤルムーク総合病院の映像があり、運ばれてくる死体には不自然な死体が多く、手錠をかけられ、目隠しをされ、さらに目をくりぬかれた遺体などもあり、明らかに拷問されたのち路上に捨てられたとわかるものが病院に運ばれてくるようです。またこの病院ではイラク軍が医師や看護婦に暴行を加え、一時抗議の意味で病院を閉鎖したのですが、今回の映像ではまたイラク軍が病院内に入って少しごたごたしていたようでした。こういった影響で医者が国外に行ってしまうことがあるそうです。ここら辺にもイラクの複雑さが現れていますね。

 そして別に小児病院では劣化ウラン弾が原因と思われる白血病の子どもがたくさん入院していました。リトル・バーズなどでも映されていましたが、ずっと続いている問題だということを再認識です。撃つ側の国は知らぬ存ぜぬですからね…自分の家族が白血病になってしまうことを想像することもできないんだろうか。ずっと「われわれ」は大丈夫だと思っているのだろうな。

 このような現状から、イラクでは国内避難民が急増し、シーア派は南部へ、スンニ派は北部へ避難しているようで、地域的な分かれ方も顕著になってきている印象を受けました。

 と、だいたい綿井さんの報告は以上のようなものでした。しかし、現地の映像をここでお見せすることができないのがとても残念です。かなり変な文章の形になっていますので、わかりにくい点・質問などはいつものように受け付けていますので。遠慮なくどうぞ!
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# by furu-ku-buratto | 2006-05-18 23:11 | 社会

いったい何が、誰が殺した…。-イラクにいた一方向的な知り合いの死-

このブログを始めるきっかけともなった映画「Little Birds」に登場するアリ・サクバンさんの実弟ラエド・サクバンさん(31歳)が、何者かに射殺されたという訃報を、監督である綿井さんのブログによって知った。一方的に私だけサクバンさんを知っている。段々実感がおりてきて今かなり動揺していると思う。

 アリ・サクバンさんは目の前で弟が殺害された…。私にはとても想像もできない、私に当てはめるなら、私の兄が目の前で殺害されるのか…、自分の半身を切り裂かれたも同然だ…。しかし、今の私にはきっとそんなことは起こらない、それは私が日本にいるから、戦地ではないから、先進国だから、搾取する側だから、日米安保に守られているから、だから…だから無関係か?

 イラクに大量破壊兵器がないとわかったとき、アメリカ国民はブッシュを叩いた。もうどうしようもなく遅かったけれど…。だがいったい誰が小泉を、自民党を叩いただろうか。日本人の意識はこうか?「日本は自衛隊をイラクに派遣して、人道復興支援を行った。」そうか自衛隊は人道復興支援をしに行ったのか…本当にそんな理解でイラク戦争を済ますつもりなのか?米英が中心になってやったのだから、日本は関係ない、そういうことか。




嘘だ。




 そんなわけない。日本は間違いなくイラク戦争を支持し、アメリカを支持した。イラクで劣化ウラン弾を使用することも、市民を巻き添えにすることも、よく考えればイラクに大量破壊兵器がなかったことも知りえたのに、私たちの国はイラク戦争に参加した、もう「戦争を知らない世代」なんていうフレーズは塵となって消えた。新たに浮かび上がってきたものは「戦争をシカトする世代」か…。ただ私は単に人を責められるようなキレイな立場にはいない、コノクニだから生まれ持って背負っている罪の他に、さらに罪を背負ったみたいだ。そう、どんなに体を洗っても私は戦争を支持した日本の国民で、間違いなく私は加害国の人だ、吐き気がする。たとえ私個人がイラク戦争に反対であったとしても、だ。

 ラエドさんを殺したのは誰?「何者か」が殺したのか?アリ・サクバンさんは03年のイラク戦争で3人の子どもたちを目の前で失った…殺したのは何?なんでだろ、私の目には自分の姿がちらつく、引き金を引いたのは、爆弾を投下するボタンを押したのは、ボクではないのか。そして日本の人々ではないのか。それも人道支援という大義名分を隠れ蓑にして…。

 日本がもし反対していたら、れば。歴史に「たら・れば」は禁止だという。そんなことは知ったこっちゃない。私はそんなご都合主義の決定論など信じない。もし日本がイラク戦争を支持していなくても何も変わらなかったかもしれない。しかし、それでも私は反対するべきであったと思う。少なくとも大事な「何か」は失わなかった。確かにもう遅いのかもしれない、しかし、今でもイラク戦争は続いている、今からでも考えることは決して無意味ではないと私は思う。まだ見てない人はぜひ映画「リトルバーズ」か、書籍の「リトルバーズ」を読んでみてほしい。イラクの現状については綿井さんのブログをどうぞ。
 
 テレビでは堀江とかいう人が保釈されたようで、昨日どのチャンネルをまわしても、そのニュース一色だった。その前は千葉の補選だったっけ…、平和だな。いや平和なんかじゃない。ただ目を背けたくなるような現実から逃げて、考えるのをやめて、無意識に何かを壊して、また目を背ける。その繰り返しのように感じる。近々また新たに陸上自衛隊が派遣されるようだ。いったい何のために?

 今このブログを書いている間にもまたイラクのどこかで名前も知らない人が「何か」に殺されているんだろうか…。いやイラクだけじゃない、東ティモールの紛争にも日本は深く関わっていたのに、私はほとんど知らない。そんな中、ただブログを書いているだけのボクはどうしようもなく卑怯者だ…。

 こんな世界で私はいったいは何をしたらいいんだろう…。もうわかってるか、私に出来ることは、ひたすら問い続け、学び続けることだ。ただそれが唯一の方法ではない。目の前にはいくつもの選択肢が広がっているはずなのだ。

 最後に、亡くなられたラエドさんがアリさんの子どもと一緒に鳥になって天国で飛んでいることを願って今日のブログを終える。(「鳥になって天国に」という部分は「リトルバーズ」の中に出てくる、アリさんの子どもの墓碑に刻まれている文章の中の言葉です。「リトルバーズ」という題名はここからきているようです。)

 今日は頭の中のことがぐちゃぐちゃのまま流れ出した感じで、変な文章だと思います。読んでくださった方、ごめんなさい。
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# by furu-ku-buratto | 2006-05-18 23:09 | 社会

「日本」とは何か

日本とはいったいなんであろうか。そして日本人とはいったい。今日で3回目となる、一応連続して書いてきたものは、「日本国」という存在を抜きにしては成り立たないはずの議論ばかりである。つまり、「愛国心」の場合、愛国心の国とは何を指すのか?それは日本国であろう。「国旗・国家法」とはどこの国の国旗・国歌であるか?それも日本国だろう。はて、日本とはなんだろう。何を言ってるんだこのバカは!と思われる方もいるかもしれないが、私はいたって真面目である。愛国心を叫び、国旗・国歌を高らかに歌う人たちに問いたい。「日本」とは何か、と。

 さて、私が違和感を感じていた「日本」について、最近とても興味深い書籍を読んだので、ここに少し長めに引用する。著書名はそのものずばり「『日本』とは何か」である。(「ご臨終メディアでもおなじみの森巣博が引用されている部分)興味があればぜひ読んでほしい、地理が苦手な私としては、苦手な部分もあったが、とてもおもしろい本だと思います。

「森巣氏は「日本国籍所有者という意味以外では、日本人なんてものは、ない」と主張する(二一二頁)。前にものべた通り、私もまったくその通りだと思う。ただ、前近代については「国籍」という概念を用いうるかどうかに疑問があったので、余り明快でないとはいえ、あえて「日本国の国制の下におかれた人」といってみたが、いいたいことは森巣氏と基本的に同じである。
「そしてもし、日本国籍所有者が日本人であるとするなら『日本人論』『日本文化論』『日本文明論』は成立し得ない」と、つづけて森巣氏は断ずる。ここで同氏のいう「日本人論」は、別の箇所できびしい批判を加えた「日本人としての真性の自己同一性」を模索した江藤淳氏の「日本人論」(一五二頁以下)をはじめ、「日本人のアイデンティティー」を求めてやまない「日本文化論」さしているが、そうした論者に対し、森巣氏は烈しく詰問する。あなたの議論の対象としている「日本人」の中に「アイヌやウイルタやニブヒ」などの「少数民(族)」が含まれているか。「沖縄や小笠原の人々を包括して」いるのか。さらに「『元在日』であった二十万人を超す『帰化人』たる『元』朝鮮・韓国人たちはどうなるのだ」(一五三頁、二一三頁)。
(「『日本』とは何か」・p332、333・網野善彦・講談社)

 ふむ、これはもっともな意見である。そもそも琉球は、かつて沖縄島を中心に南西諸島の大半を占めた地域で、薩摩藩の侵攻を受けるまでは、日本から独立した王国(琉球王国)であったのであるから、それを安易に統括して、もしくは省いて「日本文化論」を語るには無理があるといえるだろう。

 そして、問題は琉球王国のうちなーんちゅや、アイヌといった代表的な少数民(族)以外=日本という単純な図式でもないということである。
私が教育基本法改正における「愛国心」のところで、

「これは後の「『日本』とは何か」にも通じるが、伝統や文化というものを尊重しようとすればするほど、逆に「日本」という「国」が見えなくなるというパラドクスが存在すると私は思うのである。」

と書いたのは、そういう意味である。つまりどういうことかというと…、さて、あの回にとても貴重なコメントが入っていたのを覚えているだろうか。それはこんなコメント、

「なんじょしてこげな国愛すっべ。わがね。わがね国のわがね愛国者にはついていけね。」

訳:「どうしてこんな国を愛するのだろう。ダメだ。ダメな国のダメな愛国者にはついていけない。」

私はこのコメントを普通に訳せなかった、ネットでわざわざ探してやっと訳が出来たのである。ちなみにこの方はイーハトーブ(岩手)の方言で書いてくれたのだが、まだわかりやすいほうである。うちの父方の祖父は山形弁なので、電話で話されると聞き取れないことが多々あったものです。いまでも地方のお年寄りの方の話される言葉は聞き取れない言葉が多くあると思う。これは「日本の方言」という表現よりも、外国語として捉えることが可能なのではないだろうか。江戸時代などは、いわばヨーロッパのようにつながった国(藩)の集合体であったのであるから、当然といえば当然である。

 このように考えると、先の教育基本法の、

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」

という一文がいかに矛盾したものか理解できる。伝統と文化を尊重するなら、琉球やアイヌという地方固有の特質が出てくるのであって、日本国などというものが出てくるはずがない。これは「日本国」という幻想の中に伝統と文化があると信じきっている滑稽な政治家の矛盾した「愛国心」強制なのではないだろうか。

 また、昨今の市町村合併を見てみると、政府、政治家がいかに「伝統・文化」に興味がないのかがわかる。私の故郷も合併で消えた。合理的な考えのみで市町村を合併し、過疎などを助長している市町村合併を行っている裏で、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」なんて冗談にもならない。郷土を愛せだって?あなたたちが消したんじゃないか。また合併反対の住民投票さえ効力を持たないなんて、いったいあなたたちの言う郷土とはどこのことなのか。

 話はそれたが、最後にもう一度引用して、今回の考察を締めくくりたい。

「本書でも詳しくのべた通り、アジア大陸の北と南を結ぶ懸け橋であるこの列島で営まれた人類社会の深く長い歴史を背景に、日本列島はたやすく同一視できない個性的な社会集団、地域社会が形成されてきた。それを頭から追求可能なアイデンティティーを持つ「日本人」としてとらえ、その文化、歴史を追及し、その特質を論じようとする試みは、「日本国」-国家に引きずられた架空の議論であり、本質的には成り立ち得ない。実際、こうした「日本人論」「日本文化論」は否応なしに、多様な社会集団や地域社会を無視し、その多くを切り落としたゆがんだものになるか、前にくわしくのべたように、「孤立した島国」「瑞穂国」「単一民族」などの根拠のない「虚像」をつくり出すか、あるいはついに事実を追求することを放棄し「神話」「物語」によってアイデンティティーを捏造するか、いずれにせよ事実に即した「日本人論」としては成り立たない議論とならざるをえないのである。
 またこれも前にしばしば強調した通り、「日本」ヤマトを中心に成立した国家の国号、「天皇」を王の称号と定めた王朝名であり、七世紀末にはじめて日本列島に姿を現した存在である以上、「日本人」「日本文化」を論ずることは、どうしてもヤマトに収斂し、ヤマトを文化・歴史の最先端地域とする見方に導かれていくことになる。
 さらに「日本」が国名であることを意識せず、頭から地名として扱い、弥生人、縄文人はもとより旧石器時代にまで「日本」を遡らせて「日本人」「日本文化」を論ずることも、ふつうに行われているが、これは「日本」が始めもあれば、終わりもあり、またその範囲も固定していない歴史的存在であることを意識の外に置くことによって、現代日本人の自己認識を著しくゆがめ、曖昧模糊たるものにしているといわなくてはならない。」(「『日本』とは何か」・p333、334・網野善彦・講談社)

みなさんの頭の中もそろそろこんがらがってきたのではなかろうか。「う~む、『日本』とは何か」と、そうなってもらえていれば嬉しいです。
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# by furu-ku-buratto | 2006-05-18 23:08 | 社会

存在しないイスラム教原理主義-事物を名づけることによる弊害

 前回、『宗教の分化』の考察の際に、「原理主義」という言葉を使ったのだが、今日はその原理主義について、そして名前をつけることの危うさについて少し考えてみたい。

 やはりニュースなどでよく耳にする原理主義といえば、「イスラム教原理主義」ではないだろうか。例えばこんなニュース、

「イスラム原理主義組織のハマスが?日未明、自爆テロ(攻撃)を行いました。」

一度は聞いたことがあるのではないだろうか。

 そもそも原理主義、英語でいうと『Fundumentlism』の意味は、

『原理主義(げんりしゅぎ)はファンダメンタリズム(Fundamentalism)の訳語であり、宗教上の原典を絶対視する主張・態度のこと。信仰上の原点回帰の信仰復興運動の面もある。』
(ウィキペディア/http://ja.wikipedia.org/wiki/2006.4/8.22:03)

という意味であるが、この言葉は元来イスラム教にある言葉ではない。そもそも原理主義という考え方は、元来はキリスト教根本主義、すなわちアメリカのプロテスタント(清教徒・清=教えに従う人々)から発生した言葉であり、あとあと他の思想や宗教につけて、その特定の思想・物事などに固執し、徹底的に信じる人々を指して「~原理主義=ファンダメンタリズム」「~原理主義者=ファンダメンタリスト」と呼ぶように、用法が拡張されたため、「イスラム教原理主義」なるものが生まれたのである。

 ということは、以前からも指摘しているように、アメリカのブッシュもキリスト原理主義者であることは明白である。世間では「イスラム教原理主義」=「自爆テロ」というような構図で語られることが多いため、「原理主義」自体が危険な思想だと思われているのではないだろうか。そもそも「イスラム教原理主義」という呼称は、非イスラム教徒、つまりイスラム教を信仰していない人たちが勝手につけた名前であり、イスラム教の人が名づけているわけではない。ちなみにイスラム教では『イスラム復興運動』との呼称がより一般的である確かに「~原理主義者」が危険な行為(自爆攻撃やイラク戦争)を引き起こす場合もあるが、決して=ではないのである。「名前」を呼ぶときには注意深く、慎重にしなければいけない。そう「自爆テロ」は本当に「テロ」なのか、そもそもテロとは何なのか、テロリストは誰?と、問う必要があるだろう。

 何かを呼ぶときには名前が必要である。人は何かを区別しなければならない。しかし、名前をつける、呼ぶということは、ある意味で残酷な行為ではないだろうか。これは人類の負の歴史を少なからず貫いている問題であると私は思う。

 大まかな構図は「われわれ」と、「われわれ」が「見る」→「かれら」である。「見る」という表現を使ったのは、「まなざし」は明らかに「かれら」を見るのであって、「かれら」にとっては絶えず、「見られる」のである。この場合において「見る」という行為の人間が優位な立場なのは言うまでもない。何を言ったって、何をしたってかまいやしない。やられるのは「かれら」なのだから。といった具合だ。

 あるとき、それは「ナチス」から「ユダヤ人」と呼ばれ、迫害し、虐殺される。またあるとき、「日本人」から「朝鮮人」といわれ罵倒を浴びせられる。そしてあるとき「白人」から「インディアン」・「黒人」と名づけられ、意味もなく殺され、差別されたのである。

 人は何かに名前をつけなければ、呼ばなければ生きてはいけないだろう。しかし、名前をつける、呼ぶということ、ある一つのカテゴリーを作り出すということは、上記のような危険性を含んでいることをよく理解しなければいけないのではないだろうか。障害を持っている人が自ら「障害者」だと名乗るだろうか?いや、それは自らを「健常者」を名乗る自明性を疑わない「われわれ」がつけた呼称に過ぎないのだ…。
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# by furu-ku-buratto | 2006-05-18 23:07 | 社会

教育基本法改正「愛国心」の表現の合意-「愛する」ことは命令されてするものだろうか-

なんとも気が重いが、まずはニュースから…

「愛国心」の表現で合意 教育基本法改正の与党検討会
(「asahi.com」2006年04月13日03時05分)

 『自民、公明両党の教育基本法改正に関する与党検討会は12日、最大のハードルとなっていた「愛国心」の表現について「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」とすることで合意した。これを受け、政府・与党は今国会への提案に向けた調整を急ぐ。ただ、自民党内から異論が出る可能性もあるほか、国会の会期延長など政局判断もからむため、提出までは曲折がありそうだ。

 12日の検討会では、大島理森座長が愛国心の表現について提示した文案がそのまま了承された。

 基本法前文の「日本国憲法の精神に則(のっと)り」、教育行政の条項にある「(教育は)不当な支配に服することなく」との文言を残すなど、ほかの論点でも事実上合意した。

 13日に与党協議会が開かれ、検討会の合意を了承したうえで、小泉首相に報告する予定だ。

 与党協議会は03年5月に設置され、翌月にスタートした下部機関の検討会も、69回を数えた。

 自民党は結党時の「政綱」で「祖国愛を高揚する国民道義の確立」をうたう。昨年10月に決定した党新憲法草案の前文も「国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」を掲げる。

 安倍官房長官は今年2月、ライブドアの堀江貴文前社長が逮捕されたことについて「やっぱり教育の結果だ」として、「教育基本法は改正しなければならない。『国を愛する心を涵養(かんよう)する教育』をしっかり書き込んでいきたい」と語った。

 一方、公明党は支持母体の創価学会の牧口常三郎・初代会長、戸田城聖・2代会長らが政府から弾圧を受け、不敬罪と治安維持法違反で逮捕され、牧口氏が獄死した過去がある。「愛国心」には強い拒否反応がある。

 自民党が大勝した昨年の総選挙を受け、なんとか独自色を失いたくないとの思いも根強い。

 自民党は「国を愛する心」との表現を求め、公明党は「国を大切にする心」を主張した。

 今回の合意は双方の立場を考慮した「寄せ木細工」のような内容だ。

 自民党の主張に従い「国」「愛する」との表現を盛り込んだ。

 一方、公明党に配慮して「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国」とすることで、「統治機構」の色を薄めた。大島座長は記者団に「『国』という概念に(政府などの)統治機構は含まないという共通理解がある」と説明した。さらに「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」との文言も加えた。

 そして「愛」と「国」の文字を使ったが、「心」という文字はあえて入れなかったという。

 改正が実現すれば47年の施行以降初めてだが、ハードルは少なくない。

 11日の自民党の会議。

 公明党との「妥協」に「公明党は選挙で自民党を支援しているということで、我々の足元を見ているのではないか」との不満が出た。

 公明党は今秋に党首脳人事、来年に統一地方選や参院選を控え、懸案は今年中に決着をつけたいという思惑が強い。同党執行部は党内のとりまとめに自信を見せる。

 しかし、支持母体の創価学会幹部は「言葉は独り歩きする。一部の人たちはどんどん解釈を曲げてきた歴史がある」。

 実際、99年に成立した国旗・国歌法をめぐって当時の小渕首相が「児童生徒の内心にまで立ち入って強制するものではない」と国会で答弁しながら、卒業式での国歌斉唱での起立が事実上強制される動きが出ている。教育基本法も改正されれば、「愛国心」教育が強制されるのではないか、という懸念は消えない。

 もう一つのハードルが、首相官邸の判断だ。

 与党は改正案の提出は、早くても5月の連休前後と見ている。今国会で成立させるには、6月18日までの会期の延長は不可欠との見方が強い。延長するかどうかは、9月の自民党総裁選に向けた政局判断もからむ。

 首相はこれまでも「(会期)延長は考えていません。国会が閉会したって首相の仕事は山積している」と語っている。実際、6月には訪米や「骨太の方針」とりまとめなどを控えている。

 首相は12日夜、記者団から、改正案提出の見通しを問われた。「国会の状況を見ながら、判断しなければならない」。あくまでも慎重だった。 』

 ということで、そろそろこのブログでも取り上げずにはいられない状況になってきました。というか、もっと早期に取り上げるべきでした。
「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」=愛国心なわけですが、別に「国を愛すること」はいいことなんじゃないの?という人もいるでしょうし、日本という国が大好きだ!という人もいるでしょう。しかし、これは戦時の「愛国心」という、危険な存在性を抜きにしても、とてもおかしな話ではないでしょうか。

 何が悲しくて、法律で「国を愛する」ことを強要されなきゃならんのですか。愛することは命令されてするものではないと私は思う。例えば、親が子どもに対して、「お前は親を愛さなければいけない」といって、その子どもが必ず親を愛するだろうか。答えはNOだ。その親が愛情を持って子どもを育てることで、必然的に子どもは親を愛するのであって、命令されるものではない。そんなへんてこな親子がどこにいるだろう。国を愛することが重要だというのなら、愛せるような国を政府が作るのが先なのではないだろうか。

 それに、伝統や文化なんてものは命令されなくても影響を受けるものではないでしょうか。以前ある授業でこんな話があった。

「私は外国から帰ってくるとお茶漬けを食べたくなるし、家はたたみが良い。そんなものは育った環境でおのずと身体化(身につく)するもので、それを愛国心と言うのかは別として、生まれ育った周りの伝統や文化、環境に親しみが湧き、愛情を持つことはごく当たり前であって、わざわざ国に規定される必要はない。」

というような話だったと思う(たぶん)。まったくそのとおりだと私は思う。私はパンよりお米のほうがおかずが美味しく感じるし、おかきとお茶が大好きだが、それは誰かに強制されたわけでは決してない。また、これは後の「『日本』とは何か」にも通じるが、伝統や文化というものを尊重しようとすればするほど、逆に「日本」という「国」が見えなくなるというパラドクスが存在すると私は思うのである。

 以上のような理由、また昨今の政府の憲法・法律の乱用を考慮すると、このような荒唐無稽な改正には断じて反対である。

 ついでに、

「安倍官房長官は今年2月、ライブドアの堀江貴文前社長が逮捕されたことについて「やっぱり教育の結果だ」として、「教育基本法は改正しなければならない。『国を愛する心を涵養(かんよう)する教育』をしっかり書き込んでいきたい」と語った。 」

という。要約すると、堀江氏が愛国心を教育されていなかったから、あのような事件を起こしたという、わけのわからん理屈をこねている。小さいときから愛国心をたっぷりと教育されているであろう安倍氏も支持してたんじゃないの?という話ですよ(苦笑)。教育の結果だというなら、他にもっと突っ込むところあるでしょ。こんなことだと、共謀罪で、無理やり逮捕して→犯罪を犯すやつは愛国心が足りない→罰則をもっときつくしよう。とでも言いかねませんよ(涙)そんなスパイラルはけっこうです。

 さて、明日以降は(できるだけ(汗))連続して、「『国旗・国歌法』について」、「『日本』とは何か」といったテーマでブログを更新していく予定です。このような一連の問題は、とても重大な問題ですので、出来るだけみなさんの意見が聴きたいです!みなさんもなにかと忙しいと思いますが、多様なコメントをお待ちしております。
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# by furu-ku-buratto | 2006-05-18 23:06 | 社会

翻訳としての映像-作品としての映像についての考察-

 今日は日本語リテラシーという授業で書いた期末レポートを掲載したいと思います。一応みなさんの前に出せるぐらいの内容にはなっているはず…(汗)。内容を無理矢理要約すると、翻訳という行為を手がかりとして、リアリティーとアクチュアリティーという視点からイラク戦争時の戦争報道を捉え直し、そしてそこから浮かび上がってくる「作品としての映像」・「公正中立」といった問題点をドキュメンタリーというメディアをモデルを用いて考察した。そして以上の問題点をふまえた上で、メディアリテラシーという視点から現在のメディアとこれからのメディアを考えてみた。と要約下手過ぎですね(汗)参考にした文献は、「ご臨終メディア」・「良心の領界」・「リトルバーズ」、また映像資料として、「イラク戦争への道」(NHK・BS)・映画「リトルバーズ」などなど。このレポートがみなさんの考える材料になればなによりです!! いつものようにみなさんの多様な、そして批判的なコメント・意見をお待ちしています。



  『翻訳としての映像』
‐作品としての映像についての考察‐

 
 最近、私は興味・関心の関係上、外国人著者の文献をよく読む。もちろん英文で、と言いたいところであるが、残念ながら私にそこまでの能力はなく、誰かに翻訳された文献を読むにとどまっている。しかし、翻訳とは不思議な行為・仕事であると思う。それは自分が英文を訳しても、文法的にはあっているはずなのに、なぜかしっくりこない、おもしろくない文章が出来上がるのに、書店で売っている翻訳された本は、すっと読めてしまい、その本の世界観が感じられるからである。

 つまり私の英文訳のように、字義や字句に忠実なだけの翻訳文は確かに一種の正確さ・リアリティを持ち得たとしても、それがすぐれた翻訳であるということにはならない。なぜならば文章の正確さに加えて、原作者の言葉やイメージのリアリティというものを表現しなければ、真にリアルであるとはいえないのである。

 このような傾向は翻訳に限ったことではない。二〇〇三年、イラク戦争が始まった。テレビには戦争の映像があふれた。どのチャンネルをまわしても、イラク、米兵、イラク、英軍。ただ、なぜだろう、そこに人が死ぬ血生臭さ、切なさなどは感じられなかった。私は第二次世界大戦後に生まれた、私は実際に戦争を体験していない。しかし、それでも当時のテレビに映し出されるイラク戦争は、ただのアメリカ・イギリスのゲームにしか見えなかった、そしてそこに私が持っていた漠然とした戦争のイメージはいなかった。

 確かに、現在のテレビは内容の取捨選択は別問題として、画像・情報の正確さだけをとれば、歴史上このうえない正確さだろう。土埃を挙げる戦車の細かい傷、中継される兵士の表情、米兵が何人亡くなったというデータ、無意味にリアルである。だが、今回のテレビの戦争映像は戦争報道としてリアリティがあったといえるだろうか。いや、私はあの画一的な映像がイラク戦争をリアルに映し出しているとは言い難いと思う。

 それは戦争というものの表情、例えば現地の人の姿・声などがほとんど報道されず、すっぽりと抜けてしまっているからである。フセイン像が倒された映像のすぐそばで、それを何ともいえない顔で見つめる多くの人、誤爆で負傷した一般市民が運び込まれる病院を、いったい何人の人が知っているだろう。

 つまりテレビの戦争映像は、戦争という「形式」を伝えているだけで、「内容」を含めた実際の戦争を描けていないのである。戦争は人がたくさん死に、憎しみが増える、私たちの想像を絶するような行為であるはずなのに、当時のニュースに映し出される映像は他のニュースとどれだけ違いがあっただろうか。そんな映像を見ても、誰も想像力をかき立てられず、あっという間に思考停止の状態に陥る。翻訳に例えていえば、彼らは三流の翻訳家なのだ、なんとか骨組みだけは伝わるかもしれない。しかし、ただ字義や字句に忠実なだけの文章を見て、誰がその作品の風景、イメージを喚起されるというのだろうか。本当にうまい文章はアクチュアリティを喚起する、能動的なリアルとでもいうのだろうか、そのイメージを考えずにはいられず、その作品に深く関わらずにはいられないのである。

 しかし、私が示したような、イメージを喚起し、アクチュアリティをかき立てるような作品には、常に危険が伴っている。それは湾岸戦争時の原油まみれになった水鳥の写真(写真は戦争とはなんの関係もなかった)や、イラク戦争前に大量破壊兵器の存在を報じたアメリカのニュースが、当時の人々にとってはリアルだと感じられたため、両方の戦争の追い風となったのである。つまり、リアルであることが必ずしも現状・事実と一致しないということがいえる。また、その作品が誰に、どのようにリアルであるかによって、意味が変化し、必ずしもリアル=良いという図式にはならないことは明らかである。

 上記で指摘したように、ただリアルな翻訳・報道を求めることだけを重要視すればいいわけではないことはわかる。では、いったいどのような報道を目指せばよいのだろうか。一般的にあるべき報道の形として、『「公正中立・不偏不党」な報道』という言葉がよく使われる。この言葉を聞いて想像するものといえば、NHKやBBCといったところであろうか。特定の利益を守らず、どちらの主義にも偏らないなどの、いわゆる「客観的な報道」と呼ばれるものである。しかし、果たしてこのような報道は確立しうるものなのだろうか。

 ここで、一般的には事実をそのまま映しているものと理解されているように思う、ドキュメンタリーというものを通じて、この問題を検証していきたいと思う。ドキュメンタリーというメディアを取り上げたのは、あのイラク戦争を前述のテレビの報道とはまったく違う視点で、イラクの一般市民の側から戦争を映し出し、私自身衝撃を受けたドキュメンタリー映画「リトルバーズ」、戦争のリアルをいくぶんか補完したその存在と、一般的なテレビのニュース報道とは違い、一貫したテーマ性・問題意識、そして報道と同じくノンフィクションであること、また映像の対象に対する接し方・理解がより深いことから、「公正中立」という概念を考察しやすいメディアだと考えたからだ。

 さて、それでは「ドキュメンタリー」とは、いったいどんなメディアなのであろうか。
 事実を撮るという点からいえばホームビデオとなんら変わりはないが、あきらかにドキュメンタリーはホームビデオ以上のメディア機能を包含しているものなのである。ちなみにドキュメンタリーの定義はというと、『ドキュメンタリー(documentary)とは、映画フィルムもしくはビデオなどの映像記録媒体で撮影された記録映像作品の事を指す。』(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/)となっている。つまりドキュメンタリーとは単に事実を撮るだけではなく、一つの映像作品なのである。

 ここで、上記の構成と関連して、「ドキュメンタリーの公正中立は可能か?」ということについて論じてみたいと思う。私は撮る対象の事実そのものはニュートラルなものかもしれないが、主観を持つ一人の人間の中をくぐったものには、なんらかの意味が込められ、スクランブルやバイアスが必ずかかっているはずである。また、中立とはいったいどことどこの中間なのか、また、必ず対論を記述する両論併記においても、例えばAに対する対論がBであるということは誰が決めるのかという問題がある。そして、これも重要な点だが、受け手によって公正中立と感じる・感じないという側面もあるので、ドキュメンタリーを始めとしたメディアの公正中立は不可能であると私は結論づける。

 しかし、映画「リトルバーズ」の監督である綿井さんの講演を聞く機会があり、その講演の中で、「公正中立は撮った人の主観が必ず入るから無理だけれど、偏見・先入観のない報道が必要である。公正中立は手段の一つとしてとらえること。」と話されていた。つまり、一般に言われるメディアの公正中立の本質は、偏見・先入観を持たないということであると私は理解した。そして「客観的な報道」とは理想であって、確立しうるものではないという意識を私たちは常に意識しなければならないのである。

 次にメディアとしてのドキュメンタリーの特性について少し考察したい。ドキュメンタリーとは映像作品である、つまり送り手は何らかの意図・問題意識を持ち、その意図を現実の映像を元に、ドキュメンタリーという形で受け手に伝えようとしているのである。「リトルバーズ」という作品では、戦争を支持した日本の人間としての監督の立場、そして大義のもとで進められるイラク戦争、その中に埋もれていく小さな子どもの声、その一つ一つが私に語りかけてきた。私はそんなドキュメンタリー作品自身が、送り手の問題意識のメタファーであると感じた。つまり、事実を送り手がどう解釈したか、関わったのかというメタファーとしてのドキュメンタリー映像作品なのである。

 ドキュメンタリー作家の森達也氏は、ドキュメンタリーと報道の差異についてこう述べている。

「報道は客観性や中立性を、達成できないこととは自覚しつつ、標榜するジャンルだと僕は思ってます。でもドキュメンタリーは逆で、主観を最大限に表出するジャンルなんです。(中略)公益性、公共性を謳うのではなく、自らの世界観です。あくまでも主語は複数ではなく一人称単数。個的な思いや主観を表出するのが、僕の提議するドキュメンタリーです。」(『ご臨終メディア』森達也・森巣博/p33~p34)

 ドキュメンタリーの映像素材は基本的に現実の出来事である。それゆえ、現実の出来事であるという具体的な説得力や、オーディエンスとの距離の近さがあると思う。そしてドキュメンタリーは作品を観て終わりなのではない。作品を観たときから始まるものであると私は思う。つまりドキュメンタリーとは、ある現実の対象をとらえるための送り手なりの“デコーダー”(解読装置)をオーディエンスに示すメディアであり、そのデコーダーを示されたオーディエンスが、個人としてその問題にどう向き合っていくかが試されている、そんな気がしてならない。

 では最後に、このようなメディア環境における、送り手と受け手の関係性とメディア・リテラシー(読み解き能力)のあり方について論じたいと思う。今まで論じてきたように、メディアとは公正中立なものではなく、送り手の意図というフィルターを介して私たちの前に提示されていることをしっかりと自覚しなければならない。それは、映像の中にはなにかしらの思い入れやメッセージが含まれていることを頭の片隅に入れておかないと、例えばナチスドイツでプロパガンダに使われた、レニー・リーフェンシュタールの「意志の勝利」のように、私たちにとって必ずしも良いことばかりにメディアが使用されるものではないからである。またメディアを発信する側としても、対象の事実をどのように翻訳・表現するかということ、受け手にどうとらえられるかということをしっかりと考えなければならない責任があるだろう。

 ここで確認しておきたいのは、ただメディアにだまされないように気を付けようということがメディアリテラシーなのではない。情報は単に送り手から受け手に直接届くのではない。送り手によって翻訳(エンコード:記号化)された情報がどのような意図を持っているか、どのような目的があるかということを、受け手というよりは、より積極的な存在である「読み手」としてもう一度翻訳(デコード:解読)するのだ。その双方に、それぞれの物語があり、それと相互に共鳴しあう中で、意味決定が成されていくのである。もちろんそれが常に対等な立場にあるわけではない、文化的・社会的背景、そしてその時代の権力構造の中において、それがせめぎ合っていることも押さえておかなければならない。

 いかに現実を映し出したリアルな報道が存在していたとしても、それを読み手が翻訳することが出来なければ、情報はなんの意味も生み出さない。イラク戦争時のアメリカ国民の半分は、戦争の大義であった大量破壊兵器の存在を語る政府を批判的に語るニュースや、アブグレイブ収容所での虐待などの自分たちにとって不快で、苦しいニュースを避け、見せかけの愛国心に自由を投げ出した。それは今の日本の中国・韓国に対する歴史認識も同様であろう。

 しかし、現在のマス・メディアは考えている以上に、自分たちの「公正中立・不偏不党」を信じ切っているし、読み手も翻訳する気力を失っている。特に既存のマス・メディアは、コチコチに固まったヒエラルキー構造の中で、わずかな視聴率(視聴率調査を行っているビデオリサーチ社が委託しているのは、全国でたったの六六〇〇世帯)の変化に一喜一憂し、延々と視聴率競争を続けているし、経済的な問題から、もはや情報は商品化されてしまっている現状がある。そんな中で、リアルな報道をしていくことはたやすいことではない。また、夜遅くに帰ってきたサラリーマンが、わざわざ憲法改正問題を考えるために草案に目を通す余裕などないだろう。視聴率が良い娯楽番組ぐらいがちょうどいいのかもしれない。このような現状の中で、新たな社会の枠組みとメディアの関係性を問う必要性があるだろう。少し前、耐震偽造事件の証人喚問で民主党の馬渕議員が「きっこの日記」というブログ[ウェブログの略称]とのコラボレート(協働)をしたという事例からもわかるように、送り手と読み手の距離が縮まり、メディアがよりパーソナルなものとなりつつある。私はこのような動きが、双方の翻訳の価値を変化させていく可能性を持っているように思う。これらの関係性、あり方を絶えず模索していこう、こちらの翻訳は英語の翻訳のように中途半端でおいておくわけにはいかないのだから。
 
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# by furu-ku-buratto | 2006-05-18 23:04 | 社会